【ブロマガ】自己愛は相対評価か?【ヤマギシ06】

お早うございます。今日は。今晩は。

貴方のお耳のww2担当、絵を描く56式自動歩槍。ヤマギシ06でございます。



昨日は夜遅くまで

#.【あれま】対談配信【ヤマギシ06】

にお付き合い頂き本当にありがとうございました。

楽しくてついつい時間を延ばしてしまうのは悪い癖です。あれまさん眠かったらいつでも言ってね。



さて、昨日最後に話した「自己評価」について、脳味噌と口が雑魚の極み人格破綻者すぎて上手く説明できなかった部分を補足説明していこうと思います。



昨日の話は結論を先に行ってしまうと「相対評価で自己愛は培えない」という話でした。

ここでの自己愛は「自己肯定感」に治してもいいでしょう。



相対評価」とは2000年前後まで学力偏差値などに使われていた評価方法です。色々細かい分類は有るのですが共通するのが「集団内で能力を比較して評価する」というものです。

理解しやすく、合理的、計算が簡略的という長所を持つ立派な評価基準です。

しかしコレを「点数」ではなく「人間」というものに当てはめるのは余りにも浅はかでして。



そもそも人間は比較評価出来るものではありません。例えばヤマギシ06とあれまさんを比較することはできません。「ヤマギシ06のミリオタ知識とあれまさんのクトゥルフ知識ってどちらが優れているのか?」を比較するのがどれだけ愚かか。どこを基準点に何を最小単位として測るのでしょうか。「人間」ってそんなに安いものでは無いだろうが舐めてんのか!!!(発作



我々は生きている限り他人に評価され続けます。しかし相対評価で理解できるのは「人間の一側面だけ」なのです。



相対評価は「集団内で能力を比較する」という特性上「集団」でしかモノを測れません。

「数学百マス計算」では「計算速度と精度」しか測れず「理論的逆算力」は測れません。

「デッサンスクール」では「デッサンの正しい絵」しか測れず「漫画的に面白い絵」は評価できません。



それなのに「自分」という名の複数側面が合わさった最高に面白い宇宙をなんで一面だけで評価できるのか。



例えば「多数RTされる絵が描けない」という一面で自分を批判し自己愛を潰してしまうのは余りにも救われないのではないでしょうか。

「RTされないけど背景に描いたメッサーシュミットme110の機影めっちゃええやんけ」とニヤニヤ出来るのは自分だけの特権では。…おっと、誰のことだかさっぱりだな。



自分は個人的思考に偏ったクソ野郎の為に昨日あれまさんに説明された思考は理解できませんでしたが…というより、ここで隠さず言ってしまうと理解したくなかったというのが本音です。周囲の勝手な評価を気にするがあまり動けなくなるなんて、散乱した無数の針を吸い込みながら自壊していくルンバの映像をひたすら見せられている気分でした。



どうかこれを読んでいる諸兄にはその美しいご自身を一側面で測らず愛してほしいな、と今日一日もやもやと考えておりました。

珍しく偽善ぶってやがるぜこの生きる第二次世界大戦。さっさとポツダム宣言終結するんだよあくしろよ。

2019.5 ヤマギシ06