【ブロマガ】教えること、学ぶこと【あれま】

やぁやぁ、皆さん、きちんと死にかけていますか?

生きるということは死に近づくことです。死までの過程をどれだけ楽しく、ないし、自分にとって有意義なものにするか、の死までの暇つぶし、と誰か偉い人が言っていた気がしますが、誰が言ったかなんて覚えていないので、知りたい人は自分で探してみてくれよな!といったところで、こんにちわ、あれまです。

 

さて、おかしなことを語ってしまいましたが、実際の私は誰かのために生きているのではなく、自分がやりたいことを楽しくおかしくやり続けるために生きている、と思って生きています。

そのためにはある程度の土台を固めないと、やりたいことが満足にできないので、土台を自分のペースで作り上げて、今が有ります。

さて、この土台、誰かに教わって作った土台か、と言いますと、違います。

 

誰かを見て 学んだ 土台です。

 

教わると学ぶ 実際はそうそう意味も変わらないでしょう。

ですが、私にとっては大いに違います。

何が違うのか。

 

教わるというのは、誰かに教えられて知識ないし、技術を学ぶことです。

学ぶということは、自分で意識して自分の知識とし仕入れていくことです。

 

うん、何のことかわからないですね。

 

ではもう少し砕きましょう。

 

教わる、ということは誰かに教えを乞うています。

ないし、教えてもらっています。

 

ですが、私の言う学ぶ、ということは誰かを見て学ぶことはありますが、教えを乞うてはいません。

 

私にとって【教わる】

教える側→←教わる側

相互関係が存在します。

 

私にとって【学ぶ】

学ぶ対象←学んでいく側

一方通行の関係

 

だと思っています。

 

説明が下手なのでこれでなんとか、皆さんも理解してもらえたと思います。

さて、ここからが本題です。

私はインターネットの世界、所謂ネット界は基本的には平等だと思っています。

 

大人、子供、老人、性別、人種

色んな人間がネットを利用して生きています。

特にTwitterという世界は、Twitterアカウントという場所で、現実世界とは別の個人を形成していきます。そこでは個人が形成した現実とは違う個人が存在し、子供であろうと大人であろうと、対等だと私は思っています。※

※勿論実名と紐付けて活動をしている方も多くいらっしゃいます。ただそれは今回話したい内容とは別なので、敢えて触れず、差別化していますので、ご了承下さい。

 

そこでは日々、いろいろな情報が飛び交います。個人が思うままに、自分が作り上げたネットの自分を介して沢山の話をします。

その情報には、多くの感情、思考、知識、その人が培った経歴、といった多くのものがないまぜになって存在します。そして私たちはときにそれを信じ、ときにそれを疑いながら生きています。

 

そこで忘れてはいけなことが、我々は決してその個人から「教わっている」という認識であってはならないということです。

他者を見つめ、他者から学ぶことはあるでしょう。

ですが、我々は決して個人(この場合の個人とはネット、特にTwitterなどの現実世界との秘匿性が高いものを指す)に教えを乞うている側ではない、勝手に学んでいる側である、と思ってください。どこに落とし穴が存在するかわかりません。

教えを受けるのではなく、自分で選んで学んでいく、これからを生きる方々はそういうことも必須になっていくのだなぁと思うと、本当に、大変だなぁ、と思う次第です。

 

 

そして、もう一つ。

 

 

このような偉そうな言葉を並べ立て、皆さんの意識に侵入しようとする嫌な人にはご注意くださいね。

 

私の言葉は教えではありません。

ただの紙面を埋めたい戯言である。そこに学びを得るか否かは、貴方方、読者次第です。では、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。