【ブロマガ】教育って難しいよなぁ【あれま】

こんばんわ、あれまです。なんだか久しぶりのブログですねぇ😘

 

最近議論をしていないので、 そろそろしたいなぁと悩むところなのですが、今週末はヤマギシさんとふるぎさんを誘ってとあるクトゥルフを回させてもらうのですよねぇ。それが一体どうなるか、めちゃくちゃ楽しみなので、まずはそちらを優先していきましょう。

 

さて、本日の話題ですが、前回、前々回とヤマギシさんのブロマガの内容を読みました。自分の知らなかったニュースなので、大変だなぁと思いつつ、では、自分ならばどうするのかなぁを自己分析してみました。

私には子供というものはおりません。これからも子供を生むつもりはありませんし、育てるということもする気はありません。それは自分という人間にそれをしたいという欲求が皆無だからです。

 

そんな人間ではありますが、弟「これま」には娘がおります。

弟のこれまとはこの娘への接し方で何度も話し合いをしました。娘は確かに弟の家族ではありますが、弟だけではなく、弟のお嫁様の子供でもあります。家族のしつけというのはその家々によるものでしょう。そこに口出しをするのはいかがなものか、と説教臭い私にもそれなりの自制心はあるのです。

 

それに対しての弟の反応はこういうものでした

 

「いやしろよ」

 

あれま:していいのかい

これま:お前が理不尽に怒るのは許さないけれど、お前がちびま(娘仮名)の為に怒るのであれば、文句はないよ

あれま:嫁さんはいいのかい

これま:そこは納得してもらわなければ娘のためにもならない

 

さて、こうして堂々と問題があればちびまを怒る許可をもらいましたが、怒る、というのはとても難しいことです。怒るもそうですが、教育、というものもそうです。

 

自分の常識が、他人の常識を覆せるとは思っていません。

しかし、自分の常識が誰かの基盤、否、子供の基盤になるというのは、とても難しいことです。ただ、個人的な感想なのですが、教える側が間違うことは極力ないように動くべきだと思います。

ですが、その間違いを「間違いだった」と判断し、謝罪できることって素晴らしいことだと思います。間違いを間違いだったと、伝え、間違いを覚えさせないようにする姿勢は持っていたいと思うのです。

 

さて、話がそれてしまいました。

本題である、弟の娘これまの話に戻ります。

 

娘への教育、しつけに関しては怒る、ないし、叱ってもいいという許可を得ました。

まだ小さく、話も通じる年齢ではありません。そんな娘だからこそ、思うのです。

 

もしこの子が初めて「死」を知ったら、どうなるのか。

 

 

 

ここからペットロスの話をします。

苦手な方はここで読むのをおやめ下さい。読んで下さり、ありがとうございました。

 

 

 

私という人間が死を初めて身近に感じたのはいつだったのか、記憶を掘り返してみると、飼い犬の死が初めてだったと思います。

 

今では考えられない田舎あるあるだったのですが、うちの飼い犬は放し飼いでした。首輪はつけられていても、リードをつけられてはおらず、自由に散策をし、近所の方々にもそれを受け入れられていた自由な犬。

 

その犬はとても賢く、というより、私に甘い犬でした。

私よりも昔から生きてきたその犬は私に大層甘い犬でした。

 

私は恥ずかしながら、小学一年生の頃からいじめを受けておりました。いじめを受けた理由は覚えていません。多分、私の態度か、普通の子供よりも大きな体だったから、か。多分その辺りだったと思います。犬が原因ではないのは確かでした。

さて、そんな私への登校班の上級生達が行ったいじめは、一人で歩け、と毎日置いて行かれることでした。

※今は知りませんが、上級生が下級生を引率し、近所の子供同士で学校に向かうというルールがあったのです。

 

その為、私は、皆が朝、登校している中、一人で歩いて学校に向かうのが常でした。

 

しかし、私という人間はそれが別に苦ではなかった。なぜなら、私にはいつも一緒に学校まで歩いてついていってくれる愛犬がいたからです。

 

その子は私が家を出て小学校につくまで、必ず一緒に小学校まで向かい、校門前で引き返していきました。その子は賢かったのか、優しかったのか、吠えたことも一度もない秋田犬似の雑種でした。

 

しかし、それも一年も続きませんでした。

老衰で家の中で息を引き取っていたのです。

 

それが私の初めて受けた死でした。

 

 

 

さて、話は変わりますが、とある国では子供が出来たらペットを飼え、ということわざ?教訓?があるそうです。

 

というのも、ペットとは初めての家族とは別の家族となり、初めて優しくしなければいけないと理解できる存在となり、初めての友人となり、そして、初めて「死」を教えてくれる存在になり得るから、だそうです。

 

しかし、ペットロスで精神を患ってしまう人からすれば、この話は素晴らしい話になるのでしょうか。

そもそも、そんなに悲しい思いをするのであれば、ペットを飼わなければ、と思う人もいるでしょう。そんな人からすれば、このことわざ、教訓は恐ろしい悪魔の誘いにも聞こえるかもしれません。

 

難しい話です。

今でも死は恐ろしく、理解できないものです。

 

それを教えることはできるのだろうか。

弟夫婦はこの問題にどう向き合うのだろうか。

 

とても難しいなぁと思う、そんなとりとめのない話でした。

では、本日はここまで。読んで下さり、ありがとうございました。