【ブロマガ】ただしい【あれま】

正しい、という言葉は強いっすよね。あれまです。

 

そもそも、「正しい」という言葉は、正しくないものを正しくする恐ろしさもありますが、「正しい」という事実もまた、恐ろしいものだと思っています。

 

さて、これだけじゃよくわからんので、例に出して話しましょう。

 

とある場所で、人のものを盗んだ人がいました。

その盗んだものは、盗まれた人にとってゴミでしたが、盗んだ人にとっては価値のあるものでした。盗んだ人は盗んだものを大切に持ち帰りましたが、盗まれたことに気づいた人は、慌てて他の人に盗まれたことを伝え、結果として盗んだ人は捕まりました。

盗んだ人を捕まえる際、盗んだ人が暴れた為、盗んだ人へ他の人は暴行を加え、その人は大怪我または死んでしまいました。

 

しかし、盗んだ人間は悪人であり、悪人なのに暴れた為、暴行をされてしまった。

暴行をした人たちは「正しい行い」をしただけなのです。

 

 

一応補足しますが、例え話なのでこれに類似した話があったとしてもそれは偶然です。

 

この話の問題はたくさんありますが、今回私が話したいのは「正しい」という思考の下、一人の人間が必要以上と思われる加害行為を「第三者」から受け、それが「正しい」とされてしまったことです。「正しい」という言葉は怖いんです。

「正しい」行為のもとに、「正しい行為」をすることは決して「悪」ではない。

だから何をしても許される。

 

そんなことはない、って思いますよね。しかし、そもそもの話なんですが、例えば、この話の中で明かされていなかった要素として

・盗まれたものが本来は盗んだ人のものだった

→詐欺行為で所有権を盗んだ人に取られていた→盗まれた側に問題があった

または

・盗まれたものが本当にゴミで、盗んだ人はストーカーであった。

→盗んだ側に問題があった

 

等、見えない要因があったかもしれない。

そして第三者と書いてありますが、第三者が「家族」「赤の他人」「友人」「恋人」といった形で、立ち位置によっても変わります。

そこからそもそもの個人の性格や性質によっても事実の本質は変わってきます。

 

正しいとは何でしょう。

 

全ての事実確認も見ないうちに本当に正しさは語れるのでしょうか。

そして、その「正しい」という免罪符は本当に必要なのでしょうか?

 

と、何の意味もなく思考遊びをしていたときに浮かんだことを皆様に共有してみました。

少しでも面白いと思ったら、是非、YouTubeを見てね。

こんなことを話していたり、何の関係もないゲームをしていたり、発狂したりしているよ(^_-)-☆

 

以上、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。